もうないよ(714) 農・つれづれ最終章!!
36年有余の農協人生活もついに今日で最終となった。
このつたない農・つれづれも通産714回の今日で最終章。
通産でこれまでに27,037のアクセスをいただき感慨深く、感謝申し上げます。
皆さんお元気で!! 本当にありがとうございました。
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営農指導員という肩書きの一方で「非力感」を味わう日々が当分続くこととなったのだが、その「非力感」がバネとなってか、貪欲に作物づくりの知識を得るため本を買い求め読み漁った。
と同時に実践することが大事との思いで最初に手がけた作物がスイートコーンで、このコーンは今では自分の得意な作物のひとつとなっている。
さてその農産畑に染まることとなった平成元年というのは小生にとって格別な意味を持つ年である。
それは生姜青壮年部の事務局として年を同じくするメンバーと深くかかわれたこと、そのメンバーの奥さん達で組織されたYSCの初代からの事務局を務めることとなった記念すべき年であるわけだ。
生姜青壮年部との思い出は数え切れないほどあるが中でも強く記憶に残っていることが二つある。その一つは長野県中野市農協への視察研修で、この研修目的が生姜の栽培とは関係なく、「組合員と農協とのより良い係り合いはどうあるべきか」を探ることにあったこと。
そしてもう一つは「生姜のコンテナ栽培」を小生から投げかけさせてもらい彼らが快く受け止めてくれ、より発展した形で今でもそれを継続してくれていることだ。
この取組に参加してくれた小学生は延べで二千数百を超す実績となっており、一回目に参加してくれた子の中の一人がこの地で生姜栽培農家として両親と一緒に頑張ってくれている。
YSCとの思い出も数え切れないほどのものがある。中でも平成4年ころ自ら手をあげ堆肥センターを担当させてもらい堆肥づくりに夢中になる中でYSCのメンバーを巻きこんで商品化できた生ゴミ分解処理材「かえるんど」。
この「かえるんど」をきっかけに、県下あちこちのJA女性部組織、高知市役所の女性組織、県の生活普及員が事務局を務める女性組織に、「生ゴミ博士(?)として招かれ大いに熱弁をふるわせてもらったものだ。
そういえば清水か宿毛の女性組織に呼んでもらった時に事務局を務めていた女性が
今高南農業改良普及所で経営支援で活躍されているH嬢(当時はA嬢)であったことを懐かしく思い出す。
36年有余を振り返ればこのブログをいくら続けても足りない程の楽しい想い出の数々が頭をよぎってやまないのだが、つれづれなるままの想い出語りはこの辺で閉じさせてもらうことにしよう。
・・・・・・(実は連日のお酒浸りで頭の回転がすこぶるさびついているのです)
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平成元年になり生産調整への対応の一つとして生姜を初めて栽培することを決めたその矢先、初めてもらう異動辞令で農産課(当時)勤務を命ぜられた。
今振り返ればこの時を起点に小生の作物づくりへの興味が年ごとに深まることとなったわけだ。
その年県下営農指導員会の会長を現常務が務めており、指導員会の総会で「一人一研究」の発表をさせてもらう機会を得た。テーマは畜産課勤務時代に夢中になって取り組んだ「肉用牛の地域一貫生産体制を目指して」と題して、12年間の総括の思いを込め熱い気持ち一杯で発表させてもらった。思いが熱くなりすぎた結果、持ち時間の20分をはるかにオーバーする42分余りを費やしてしまい、残念ながら努力賞(三位)の結果に終わった。
この年の最優秀者からヨーロッパ2週間の研修が副賞として構えられていたので、それを逃したことをずいぶんと悔やんだものだ。
ところが発表からしばらくたち、最優秀者の方が健康上の理由で研修を辞退されたたうえ優秀者の方はパスポートを持っていないということが重なり、努力賞の小生にその研修が転がり込んできた。
ドイツ~スイス~ルクセンブルグ~フランス~イタリアを巡る2週間の研修は強烈なインパクトを小生にもたらしてくれた。
また、この研修は当時東京農工大の梶井 功教授が団長で、現在農協運動の原点を厳しく問いかける坂野 百合勝氏、つい最近「現場からのJA運動」という本を執筆された現(社)JC総研の松岡 公明理事等歴々たるメンバーがいたことも貴重な体験となった。
そしてこのあと当JAの営農指導員はこの「一人一研究」に出れば「必ず最優秀」を獲得してくれ、ある意味でのプレッシャーと輝かしい伝統を築いてくれたことを誇りに思っている。
(そのメンバーはK課長、T班長、Y班長、K係長、S指導員の面々で、小生自身ずいぶんとこのメンバーに助けられたことを感謝するとともに、彼らの今後一層の活躍を願っている)
農産課で最初に担当した作物は、水フキとカブの種採取栽培(武蔵野種苗)で、現在では当農協の優秀なLA(ライフアドバイザー)として活躍されているH君に連れられての営農指導員が始まった。肉用牛に関しては相当の知識を自負していた小生であるが、作物に関する知識は全くと言ってよい程乏しく、夢中になって書物での知識を得ることに努めた。
その時最初に買い求めた書物は、大学の同期でこの春同じく定年を迎える現農林副部長のMのアドバイスを受け、「作物栽培の基礎知識」(農文協)であったことを今でも覚えている。
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昭和52年(1977年)5月4日、髪黒ぐろのオールバックに茶色のスーツ姿で小生の農協人としての勤務がスタートした。
所属部署は畜産課で、当時現専務が主任でその指導のもと、12年間は畜産課勤務。
担当は肉用牛で、当時高齢者を対象にした土佐褐毛牛(土佐の赤牛)の町の貸付制度、農協独自の貸付制度もあり、一気に管内で300頭を超す繁殖母牛が飼育されるようになった。
当時10日間の講習と試験で取得できる「家畜人工授精士」を取得させてもらい、通産800頭あまりの子牛生産にかかわらせてもらった。
「肉用牛の地域一貫生産」を目指して、地域の繁殖牛農家と肥育牛農家との連携に熱中し、時間外、土日祝日も関係なしに牛の生理に対応した日々を懐かしく思い出す。
また、勤務間もなくして当時大学の先輩であるT常務の取計いで、愛媛県経済連に3か月畜産簿記の研修に行かせてもらい、奥道後に宿をかまえ、厳しいK氏の指導のもと複式簿記による畜産簿記の実務を鍛えてもらった。この研修は1ヶ月の延長を願い出て都合4か月の研修をさせてもらったのだが、この知識が後々まで役に立ち、現在K課長・K指導員が中心でやってもらっている経営記帳支援につながっている。
昭和58年には「窪川原発騒動」が町を2分する形で議論され、農家同士・町民同士も厳しい意見対立の場面があちこちで見聞きされた。
小生は反対の立場で「原発反対農民組合」に加わり、休みをとって現在実践農大のY校長と反対をとなえる街宣車に乗り込んだり、反対集会の壇上でガンバロウの気勢をあげたこともあった。当時は本当にやむにやまれぬ思いで一杯であった。
そんな小生の動きに1通の脅迫文を送りつけられ、驚くとともにその1通は今でも記念としてとってある。
そんなさ中、町内のJ茶房を拠点に町内のアメゴ釣り仲間が集まった「窪川渓流会」の会長を務め、昭和54年~59年は「アメゴに夢中」の時期があり、この仲間達がいろんな面で精神的な支えになってくれていた。
そしてまだ原発騒動の火が消えやらぬ昭和59年に、わが窪川渓流会の主催で地域の仲間の協力もいただき、加藤 登紀子の「人は昔さかなだったコンサート」を改善センターで開催したことは、心に残る思い出の一つになっている。
このとき当地での開催依頼を滔々と訴えた「お登紀さん」さんへの直訴状は今でも小生の宝物の一つとしてアルバムにしまっている。
畜産課を去る2年前の30歳の時、町内の乳雄の肥育牛農家のグループである「ビーフキャトル」のメンバーに誘っていただき、アメリカカリフォルニア州1週間の視察研修に出張で行かせてもらう幸運にも恵まれた。これが初めての海外体験であり、その研修内容は1年近くにわたり「農協だより」に掲載させてもらったものだ。
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今週いっぱいで農協職員を退職することとなる。
最後の役職となる営農総合センター長を平成18年に拝命して、毎週月曜日には「週礼」をさせてもらってきた。
何を話すべきか悩みながら、ここ2年ほどは皆に農業新聞の記事紹介を順にやってもらうパターンで進めてきた。
退職を否応なしに意識するようになった3月に入り、この最後の週礼には「農業協同組合の歌(明日の大地に)」を歌わしてもらうことと決めていた。
当初はアカペラで歌うつもりであったが、ほんの数日前にひょんなことから全農県本部では毎朝この歌を流しており、テープがあるのでそれを借りれる幸運に恵まれた。
この土日に幾度もテープを聞き練習をして今朝を迎えたのだが、しらふで人前で歌うことにすっかりあがってしまい、調子はずれの歌っとなってしまった。
一番は小生が一人歌い、二、三番は皆にも一緒に歌ってもらった。事前に歌詞カードを配布させてもらい、小生も老眼鏡をかけ、それを見ながら歌ったのだが、途中からは目頭が熱くなり老眼鏡が曇ってしまった。
今では聞く機会がほとんどなくなっているが、小生が農協に入った頃には、講習所(岡山や平塚)での研修時、朝の体操前に必ずこの歌がかかり心踊らしたものだ。
思い出にその歌詞を記しておきます。
1.ここにみどりの 朝があり あふれる風が 風がある いのちの炎を かきたてて
明日の大地に 生きようよこころをつなぐ 協同の のぞみの歌よ 鳴りひびけ
2.ここにひかりの 空があり 息づく土が 土がある 豊な生活(くらし)を 支えあい
たえぬほほえみ かわそうよ のびゆくつどい 協同の みのりの歌よ 高らかに
3.ここに芽ばえの 夢があり 理想の道が 道がある したたる汗を 手のひらに
おなじよろこび にぎろうよ 明日(あした)を拓く 協同の ちからの歌よ 永遠(とこし え)に
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収穫できずに年を越したエビイモ。昨年12月にうっすらと積った雪にあわてて雪対策として畝全体をポリビニールで覆っていた。
暮れにいくらかを市場出荷してもらったが、長さ20m程の5畝は手つかずでポリをかぶせたままとなっていた。
今年の作付用に伏せ込み用の種子だけ早く掘ろうとこの前の休みに圃場に出かけた。
そこでポリをはがしたところなんと畝全体にエビイモの芽が伸び出しているではないか。
ポリが温度を高め生育を促進させてしまったのだ。
掘り起こしてみると今年種として使う孫イモも4~5cm程の白い角芽をだし、根も旺盛に出していた。
ここ数年は仮植床にて苗立てをしての栽培をしており、この芽をかいで植えこむべきかどうかと迷ってしまった。
かいで植えこんだ方が揃いが良い気がしたが結局はその芽があまりにも勢いよく伸びているのに圧倒されてかがずにそのまま植えこむことにして作業を進めた。
果たしてこの選択が吉とでるか凶とでるかは経過を見てみるしかない。
種芋を伏せ込んだ畝に除草剤を振り、その上に稲藁を敷き詰めた後パオパオをべたがけし、芽の差し替わりを防ぐ手立てとした。
さてどうなるか・・・・。
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去る19日の夕方中土佐町久礼の「おもや」という店で、YSCによる小生のための送別会を催してもらった。
YSCは平成元年に当時生姜農家の奥さんを中心に設立されたグループで、小生が設立当初から事務局を担当させてもらっってきた。そんな縁があって今回の送別会を催してもらった次第だ。
現在のYSCのメンバーは生姜栽培にこだわらず、年齢構成も栽培作物もバラエテイに富んでおり、先輩OBや小生のかあちゃんもメンバーに加えてもらっている。
「いつまでの若い笑顔を忘れない」を合言葉に25年の歩みを続けているYSCの活動は、JA女性部にかかわりながらも、べったりではなく、独自の活動を行っており、現在23名の構成メンバーとなっている由。
当日は招いていただいたお礼の幾分長い挨拶をさせてもらった。
設立の経過、記帳勉強会での苦労話、堆肥づくりの勉強会で生まれた「かえるんど」の話、ガーデニング研修でデイズニーランドに行ったこと、欧州視察団に参加したこと、東京の百姓を勉強しようと東京都葛飾区(?)の農業試験場に歩きまわってやっとこさでたどり着いたこと等々・・・。
小生、勤務以来12年間は畜産(肉用牛特に土佐の赤牛)一筋で、31歳で初めて異動辞令をもらい当時の農産課に移って精神的に一時期しんどい状況に遭遇していた。
そんな時に出会ったYSCとの関わりにはずいぶんと精神的に助けてもらったことを今でも
ありありと覚えている。
そうした思い出話を交えたお礼を述べさせてもらう中で自然と目頭が熱くなってしまい、感無量のひと時を味あわせてもらった。
会場の「おもや」という店も風情のある品の良い店で、料理も新鮮で目新しい数々の品が次々と出てきて、ビール・酒とともに堪能させてもらった。
後任のH事務局も同席させてもらい一緒に楽しませてもらった。
YSCの皆さん本当に楽しいひと時をありがとうございました。
YSCの今後とも「ヤング・スマイル」を忘れない末永い活動を心よりご祈念申し上げます。
ありがとう!!
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3月も早下旬にさしかかるようになり、明日は春分の日で彼岸の中日だ。
暖冬と言われながら厳しい寒さが続いたことで、春めくと同時に桜の花も一気に開花し、平年より1週間以上早い開花宣言となった報道されている。
昨日は「春嵐」の激しい雨風に見舞われたところだ。
この前の土曜日には遅まきながらかあちゃんと二人で日野地と根元の墓掃除を済まし、そのあと今年第2弾のコーンを播く準備として、2a程にマルチを張った。
ハクサイ、ブロッコリーを栽培していた後であらかじめその残渣を片付け畝を立てていたところで、畝の肩をジョレンで削り、黒と透明のマルチを順次張っていった。
一人で足とジョレンを上手に使いながら、なるべくぴたりと張れるように注意深く作業を進め、幸い風も余り吹かなかったこともあり比較的短時間で6畝のマルテイングを終えた。
今週内には播種+トンネルの作業を済ませたいと思っている。
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この日曜日に職員として最後の外務を行った。
2年前から大野見竹原・芹田地区を担当しており、初日の外務では地理が皆目わからず、半日以上かかってしまったことを懐かしく思い出しながら最後の外務を無事終えることができた。
幸い多くの方に直接お会いすることができ、2年間お世話になったお礼を親しく伝えることができうれしかった。
毎月1回の外務は少し負担に思ったこともあったが、今回で最後かと思うと、ようやく名前と顔が一致し、親しく声を掛け合うことができるようになった関係から離れてしまうことに少しばかり感傷的な気持ちに襲われての外務となった。
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今から60年前、1953年(昭和28年)3月15日の今日は小生がこの世に産声を上げた記念すべき(?)日だ。
依頼今日で60回目の誕生日を迎え、小生もついに「還暦」の年となった。
1989年(昭和54年)5月4日に農協に初勤務をしたのがついこの間のようにおもわれるが、いつの間にか36年と11ヶ月近くの年月が流れ、あと2週間で定年退職を迎えるところにきた。
職場のメンバー達にも、つい先日盛大な送別会を催してもらい、「あと何日か・・・」という意識がしきりに頭をよぎる傾向が強まっている。
残りの日々を精いっぱい勤め、さわやかな気持ちで去っていきたいと思っている。
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