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つれづれなるままに・・・ 36年有余の想い出語り その①

昭和52年(1977年)5月4日、髪黒ぐろのオールバックに茶色のスーツ姿で小生の農協人としての勤務がスタートした。

所属部署は畜産課で、当時現専務が主任でその指導のもと、12年間は畜産課勤務。

担当は肉用牛で、当時高齢者を対象にした土佐褐毛牛(土佐の赤牛)の町の貸付制度、農協独自の貸付制度もあり、一気に管内で300頭を超す繁殖母牛が飼育されるようになった。

当時10日間の講習と試験で取得できる「家畜人工授精士」を取得させてもらい、通産800頭あまりの子牛生産にかかわらせてもらった。

「肉用牛の地域一貫生産」を目指して、地域の繁殖牛農家と肥育牛農家との連携に熱中し、時間外、土日祝日も関係なしに牛の生理に対応した日々を懐かしく思い出す。

また、勤務間もなくして当時大学の先輩であるT常務の取計いで、愛媛県経済連に3か月畜産簿記の研修に行かせてもらい、奥道後に宿をかまえ、厳しいK氏の指導のもと複式簿記による畜産簿記の実務を鍛えてもらった。この研修は1ヶ月の延長を願い出て都合4か月の研修をさせてもらったのだが、この知識が後々まで役に立ち、現在K課長・K指導員が中心でやってもらっている経営記帳支援につながっている。

昭和58年には「窪川原発騒動」が町を2分する形で議論され、農家同士・町民同士も厳しい意見対立の場面があちこちで見聞きされた。

小生は反対の立場で「原発反対農民組合」に加わり、休みをとって現在実践農大のY校長と反対をとなえる街宣車に乗り込んだり、反対集会の壇上でガンバロウの気勢をあげたこともあった。当時は本当にやむにやまれぬ思いで一杯であった。

そんな小生の動きに1通の脅迫文を送りつけられ、驚くとともにその1通は今でも記念としてとってある。

そんなさ中、町内のJ茶房を拠点に町内のアメゴ釣り仲間が集まった「窪川渓流会」の会長を務め、昭和54年~59年は「アメゴに夢中」の時期があり、この仲間達がいろんな面で精神的な支えになってくれていた。

そしてまだ原発騒動の火が消えやらぬ昭和59年に、わが窪川渓流会の主催で地域の仲間の協力もいただき、加藤 登紀子の「人は昔さかなだったコンサート」を改善センターで開催したことは、心に残る思い出の一つになっている。

このとき当地での開催依頼を滔々と訴えた「お登紀さん」さんへの直訴状は今でも小生の宝物の一つとしてアルバムにしまっている。

畜産課を去る2年前の30歳の時、町内の乳雄の肥育牛農家のグループである「ビーフキャトル」のメンバーに誘っていただき、アメリカカリフォルニア州1週間の視察研修に出張で行かせてもらう幸運にも恵まれた。これが初めての海外体験であり、その研修内容は1年近くにわたり「農協だより」に掲載させてもらったものだ。

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